救急車 ROMA AMOR (9)

私も入ろうとすると、家族はだめという。そのうち中で妻が、夫を中に入れてくれと頼んだとのことで、入ることができた。40歳ぐらいのややタバコの臭いがする女性医師が現れた。自分は英語が下手でごめんと言う。それに安心して、私もつたない英語で説明した。英語が下手は作戦だったかもしれない。心電図検査。迷走神経反射との説明。古代ローマの都で迷走神経反射という医学用語を聞くことは想像していなかったので、とても新鮮な印象。たまたま、その1-2ヶ月後、ある医学番組[1]をみた。その中で、失神でER受診時、入院適応の有無を判定する有用なスコアとして、イタリア発の文献[2]が紹介されていた。納得。血液やCTなどさらに検査を希望するかと言われたが、希望しない旨、 サインした。ローマでは 入院や手術以外、海外旅行客の診療費は無料とのことだった。

 

[1] http://annals。org/aim/consult-guys#page=1&fl_ArticleTypeID=14671&fl_text=Consult+Guys&fl_HasAOE=false

[2] Del Rosso A、 et al。 (2008)。 Clinical predictors of cardiac syncope at initial evaluation in patients referred urgently to a general hospital: the EGSYS score  Heart、 12、 1528-1529

救急車 ROMA AMOR (8)

ERに到着、トリアージ室に妻は運ばれ、私は外で待たされた。似たような事情なのか多くの患者と家族が待っている。また、救急車が入ってくる。やはり、女性と男性のコンビ。女性がリーダー。その後、妻は出てきたが、ストレッチャーに横になったまま、30分ほど再び待たされた。妻は顔色が悪い。ストレッチャーで妻の上半身を上げたままだったので、上半身を下げ、持っていたバックに足をのせた。やっと診察室へ。

救急車 ROMA AMOR (7)

パンテオンを見ながら、食事をとり、ワインを飲む。そろそろ会計というときに、妻の様子がおかしい。意識消失。足を上げるようにして横にすると意識がもどる。そばのホテルまで歩こうとしてパンテオンの前で再び意識消失。黒い石畳に横にした。機関銃を持った兵士がかけよって来た。警察官が救急車を呼んでくれた。レストランの隣の席にいたピンク色のシャツの若い男性が氷をもってきて、首にあててくれた。旅行客らしい女性がイタリア語を英語に通訳してくれた。イタリア! その後、救急車は現れず。「Donna Leonという人のヴェニスが舞台の刑事小説シリーズを読んでいるので、このようなとき、パトカーや救急車が来るのがとても遅いのは知っていますよ」と、心の中で、 一緒に待ってくれている警察官に、イタリア事情のいいわけをする。そのうち、観光馬車の御者が警察官に強い口調で何かを言い始めた。商売の邪魔になっていると言っているのかなと心配になった。そのうち、御者は、馬と馬車を後ずさりさせ、妻の側に横付けにした。石畳の上はひどいと妻を乗せて椅子に横にしてくれた。救急車が来て、乗り込むとき赤いシャツの御者を見るとPregoとにっこり合図をした。救急隊員は女性と男性のコンビ。男性が助手のようだ。救急車はすぐには出発せず、塩を舌下するなど、随分長い時間、様子をみた。妻が立ち上がろうとすると、また、崩れてしまい、病院に向かうことになった。

救急車 ROMA AMOR (6)

(7日前、日本からローマへ到着した日)

これより、7日前ローマに午前10時頃到着した。猛暑。空港まで迎えに来てくれたNさんがローマもサハラ砂漠に飲み込まれつつあると真顔で言う。40度。それでも嬉しくて、トレビの泉、スペイン広場と歩き回ってしまう。8時頃日が沈むことを知って、フォロ・ロマーノで夕日をみようと飛行機でほとんど眠れなかったという妻をさらに連れ回してしまう。夕日を見た後、ホテルの屋上(写真2)で軽い食事と何か飲んで寝ようと提案したが、妻はさらに嬉しいようで、パンテオンの広場のレストランで食べたいと言う。

救急車 ROMA AMOR (5)

“のんびり”を3日間過ごして、ナポリまで車で送ってもらい、電車でローマ、パンテオンのあるセナート広場のホテル[1]に戻った。いろいろあったが、これから帰るのはやはり名残惜しい(写真2)。しかし、日本に帰り、病院で検査をしてもらえば、安心できる。

 

[1] http://www。albergodelsenato。it/

救急車 ROMA AMOR (4)

翌朝、アマルフィを歩いた。街までは、狭い道を車と競って歩くのは危険で、ホテルのシャトルバスを利用した。街の中心部にある大聖堂[1]の大屋根から朝の太陽の光がこぼれでて、まぶしい。イエス・キリストが布教を始めたころ、ガリラヤ湖で漁をしていたアンドレは兄弟のペトロともに声をかけられた。大聖堂には聖アンドレの聖遺物がまつられている。

狭いメインストリートを土産物屋など覗きながら登る。途中気のよさそうな麻のシャツ屋があり、思わず、涼しそうな白いシャツを二枚買ってしまう。さらにのぼると、昔の製紙工場があった。イタリア人の母親と小学生くらいの子二人、私たちを若い男性が案内してくれた。数年前、日本の和紙造りの関係者[2]が来館したとのことで、サイン帖を見ると、近所の高校の文字が目に入った。大聖堂まで戻り、その裏側の住居地区を縫う狭い道。建物の中の道もくぐり抜け、ひたすら登る[3]。街全体が見渡せるところに出た。

 

[1] アンデレの捧げられた大聖堂であり、9世紀頃建設された。
大聖堂は7回もの改修がなされており、ロマネスク建築バロック建築 イスラーム建築ロココ建築ゴシック建築ビザンチン建築など様々な建築様式が混在している。また大聖堂に地下には地下聖堂があり聖アンデレの聖遺物が奉納され、聖アンデレの骨から聖なる液体マナ (食物)が出てくると言われている。
4次十字軍の遠征が実施された1206に聖アンデレの聖遺物が大聖堂に運び込まれたと言い伝えられており、1208に地下聖堂が完成し聖アンデレの聖遺物が安置された。(ウイキペディア)

[2] 紙の文化交流 美濃市 http://www。city。mino。gifu。jp/pages/6224

[3] 住宅の門にはときどきAttenti al Cane (犬に注意)のサインプレートがあった。同じものを購入し、自宅に貼った(写真3)。

救急車 ROMA AMOR (3)

ソレントのナポリ湾を見渡すレストラン[1]でランチとプロセッコの後、海岸沿いの車がすれ違うのもやっとの狭い道をひたすらドライブし、アマルフィのサンタカテリーナホテル[2]に到着した。少し節約して、海が半分見える部屋を予約していたのだが、海が一望できる部屋に案内してくれた。部屋は絶壁に造られた庭園から入るような形式。広々とした窓から地中海が見える。予想通り、海の料理も、レモンを使ったパスタもいい。ロビーには映画アマルフィを撮影したときの記念写真が飾られている。

 

[1] http://www。bellevue。it/

[2] https://jp。lhw。com/hotel/Hotel-Santa-Caterina-Amalfi-Italy