救急車 ROMA AMOR (2)

(ローマからアマルフィ)

ナポリからアマルフィへの交通の便は悪く、贅沢して、Nさんという日本人に運転を頼みローマ-アマルフィの半日のドライブをした。Nさんは「アマルフィ 女神の報酬[1]」という映画で最後のクライマックスの大使館のパーティのシーンにエクストラとして映っている。

途中、モンテ・カッシーノ修道院[2]に立ち寄った。モンテ・カッシーノ修道院第二次世界大戦で戦略上の要地にあったため、ほとんど破壊され、残骸を集めて、再建されている。戦闘は5ヶ月間続き,戦死者は5万人を超えた.この戦闘に参加したハワイ日系人の第100歩兵大隊は勇敢に戦い,多くの命を落とした[3]。第100歩兵大隊はこの戦いで,約1300人から500人足らずに兵力が半減し,米国本国の収容所からの日系志願兵を主体に編成された442歩兵連隊に組み込まれた.442歩兵連隊は,ヨーロッパ戦線の激戦地区を転戦.米国人としての証のために戦った.戦いは悲劇的だった[4]オバマ大統領は2016年12月真珠湾での演説で,米陸軍史上もっとも多くの勲章をもらった連隊として言及している.妻の日曜のランチ仲間,南の島の王族を祖先とする男性の祖父君は日系一世であり,シチリア戦線で亡くなったという。修道院は529年頃ベネディクトゥスにより岩山の山頂に建設された。受付の女性が修道院の中を案内してくれた。途中の岩に、ちょうど肘が入るような凹みがあった。昔、ベネディクトゥスが岩の上に転倒した。本来であれば、致命傷を受けたはずだったが、神がベネディクトゥスを守るために、その岩が柔らかにし、窪ませて、助けたという。勧められるがまま、妻がその凹みに肘を入れて横たわる。私は2日前、私が転倒したホテルの硬い床は凹まなかったなと心の中で冗談を言ってしまい、懺悔。日系人がこの山で戦った記録はと意識したが、その痕跡をみることはなかった[5]。その代わり、ここで同様に戦い,命を失ったポーランド人の記念として、修道院から望む丘全体を使った十字架が目に入った。

 

[1] アマルフィ 女神の報酬』は、2009年7月18日に公開された日本映画。題名のアマルフィとは、ロケが行われたイタリアの町の名前である。撮影は2008年12月半ばから2009年3月にかけて行われ、観光映画にふさわしく、ローマ市内が中心で、ローマ歴史地区、スペイン階段、サンタンジェロ城、カピトリーニ美術館、コロッセオ、テルミニ駅、フィウミチーノ空港、ローマ以外ではカゼルタ宮殿アマルフィポジターノ、ラベッロの世界遺産を中心としておこなわれた。(ウイキペディア~

[2] モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)は、イタリア共和国ラツィオ州フロジノーネ県カッシーノ市郊外に位置する標高519mの岩山。ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会の修道院を築いたこと(529年ごろ)で有名。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された。(ウイキペディア)

[3] 第二次世界大戦末期にはドイツ軍防衛線であるグスタフ・ラインの重要拠点となったことから、1944年の1月から5月までモンテ・カッシーノの戦いが行われた。2月15日には連合軍の空爆によって修道院一帯が完全に破壊されたが、実際にはドイツ軍は修道院を占領しておらず、この破壊行為は「連合国の愚行」としてドイツ側の宣伝に利用された。廃墟となった修道院をドイツ軍部隊が要塞化したため、連合軍はこの廃墟を占領するために多大な損害をこうむった。この戦いには日系人で編成されたアメリカ軍の第100歩兵大隊が投入され、多大な犠牲を払いながらも激闘を繰り返し、賞賛を受けた。また第2ポーランド軍団がカッシーノの占領に大きな役割を果たし、同様に多大な犠牲を払いながらモンテ・カッシーノを占領した。彼らの軍人墓地はこの近くにある(ウイキペディア)。

[4] NHK「失われた大隊を救出せよ 米国日系人部隊“英雄”たちの真実」という番組で,当時の様子が紹介された.第100歩兵大隊,後に,第442歩兵連隊は,Go for brokeという言葉を胸に,シチリアサレルノ,ローマ,フィレンツェマルセイユ,リヨンと転戦した.(ローマ解放では,第100歩兵大隊がその突破口を開いたが,世界が注目するローマ入城の行進に日系人が最初ではまずいと,後まわしになった).そして,その後,北仏のブリュイエールを解放した.町には442通りと名付けられた路地があり,今でも毎年,町を解放した日系人部隊への感謝の祭りが行われている.しかし,休む間なく,山頂に孤立したテキサス人大隊の211名を救出するという極めて困難な作戦を命じられた.4日間の激戦後,救出に成功した.その戦いで442連隊の戦死者は216名にのぼり,重傷者は600人以上.その10月のみで800人以上が亡くなったという.番組の中で,生存者の一人は英雄とは呼ばれたくないと心情を吐露している

[5]後に知ったが,丘を見渡す場所に立てられた碑には,第100歩兵大隊の名が刻まれ,町の人々は,その兵士が日系人だったことを記憶にとどめているという.